MARTH had a great responsibility for Japan’s resort industry when he was young.
He was also a leading figure of healing work.
His music has been healing the world.
Lastra Mu, produced by MARTH, will be able to bring people a dream, hope and love
with the high world standard…

世界を変えたいと願う人々が集うリゾート

A resort with a vision of a transformation of the world,
where people wish to transform the world get together…

あらたなる時代への変わり目、2022年にオープンする「地上最後の楽園 Lastra Mu」の誕生は、まさに世界にとって、美しき愛ある維新とも呼べるような画期的なモニュメントとなるであろう…。
なぜなら、リゾートプロデューサーであるMARTHをはじめこのリゾートを創る人々(建築家、ガーデンデザイナー、食の専門家等)すべてが、ある意味、ヴィジョナリー、すなわちヴィジョンを見る人、先見の明のある人、美しき未来の姿を見て、世界を美しく変えたい人々、そこから動く人に他ならないからだ…。そして、それだけではない。このリゾートのゲストとなるメンバーの方々も、同様にヴィジョナリーであり、美しき世界を創造したいと願う人々、世界を美しく変容させたいと切に想う心美しき人々である身体…。
それ以外の人々は参加をお断りしているという…。

HEALING.の創設者であり、このたびの「Lastra」のエグゼグティブプロデューサーであるMARTHは、かつて与論島に日本で初めての抗酸化πウォーターリゾート「プリシアリゾート」を創設し、23歳の若さで日本のリゾート業界の父とも呼べるほどの活躍をし、26歳の時には史上最年少で一部上場会社の役員ともなり、数々の業績を挙げた。

同時に彼は、日本全国講演をし、「これからの企業は、本質的な事業をしない限り、上場するべきではない。」と説き当時の上場企業などの社長や重役を含め、人々に大きな影響を与え、物議を醸した。

その後も、ミサワリゾートやアップルジャパンの副社長などの重役として数々の大事業を成功に導いたが、あるとき「そこには何もなかった…」と、それまで築いたありとあらゆる地位や名誉や財産や株式などに全く価値を見出せず、幸せで愛ある生き方を選び、あらたなる道を歩み出した。
それはMARTHがエゴ社会を見捨てた最初の第一歩であったのかもしれない…。

ミサワ時代から、社員教育のためのリサーチを兼ねて世界中の様々な自己啓発セミナーに自ら参加し、そこで学んだ様々な技法に加えて、平行して触れたJ. クリシュナムルティ、マハリシ・マヘーシュ・ヨーギー、OSHOラジニーシ、ラマナ・マハリシ、又、ヴァーノン・ハワード、ワーナー・エアハード等々の啓発トレーナーなど、世界中の覚者と呼ばれる人々のスピリチュアリティから得たインスピレーションは、彼をして、自らトレーナーとして立つ自己啓発セミナーの会社を起こすに至らせた。彼はそこで何十万人という参加者のハートの真実に触れた。セミナーの最後に、参加者が自らのいのちに名前をつけるとき、誰もが愛や許しに変容した名前をつけるという…。たとえ傷つけられても、けして傷つけない…。どのような人であっても、その胸の奥には、必ず愛があることをMARTHは、そのとき確信したと伝えている…。

そんな中、彼はセミナーのトレーナーであり、同志でもあった最愛のパートナーをスキルス癌で亡くし、救えなかった哀しみの中、真の健康への飽くなき探求を始めた。

やがて、自ら世界で初めての温熱天然岩盤機器を開発し誰に資金をあおぐこともなく、自力でHEALING.を急成長させた。まさにエゴ社会とは一切の関わりなく、真の癒しの商品を生み出し、利益を上げたのだ。そして、そのような癒しの商品に理解ある、心美しき人々とだけつきあってきた。

その後、父を亡くして初めて知った自らのルーツである淡路島に代々伝わる「ひとつなるゆえに、傷つけられても傷つけない…」というメッセージに秘められた古代ユダヤのリーダーの深き想い、戦いを避けて、何万キロもの旅に出て貫いた愛、神の子として生きたいというそのいちずな想いに深いレゾナンス(共鳴)を感じたMARTHは、同時に自らの身にふりかかった言われなき過去の経験を含め、社会構造の腐敗に満ちた姿を知るようになった。若かりし頃に築いた成功というものがその腐敗した社会構造の中でのことであり、現在の事業がそれらに全く属さずに営めることへ、清々しい喜びを感じたのだった。